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健太郎と竜次へ、伝えたいこと

東京ステーションホテル:最後の夜(2月)

帰国してほぼ二日間寝続けました。でもこれ以上現実逃避もできないので、今日からいつもの生活に戻る努力をするつもりです。

でもその前に・・。寂しさはいつまでも残るけど、細かいことは忘れていってしまうと思うので、忘れる前に今の自分の気持ちをここに書き留めておこうと思います。

お母さんがいなくなって寂しくなるのは、自分が我慢すれば良いから平気なんだけど、どうしても何度考えても納得できないことがあるから、そんな気持ちを2人にもシェアさせてもらおうと思います。もちろん自分の気持ちを納得させると言うのが一番の理由だけど、2人にも知ってもらいたいと思う気持ちも少しあるから。

まずはお母さんを最後まで苦しめてきた、右手が無くなってしまったことについて。周囲からはいい加減に慣れていると思われがちだったけど、このことで最後まで辛い思いをしてきたと思います。プライドが高かったからなおさら。まずは単純に、デパートで素敵な服を試着して鏡の前に立った時、右手が無い現実に戻って一瞬見せるがっかりした顔、素敵なレストランで気取ってご飯を食べに行っても、パンをちぎってバターすら塗れないこと、右手がないことにとっさに対応できなく馬鹿なことを言ってしまう周囲の人たち(もちろん悪気はないのは知っているけど)との遭遇など、辛い場面をたくさん見てきました。どんなに気取っても、人より劣って見えてしまう・・想像できるよね?古着屋でどんな良い服を見つけても、鏡の前の自分に右手がなかったら、社長と呼ばれても、右手がないことで、どこか馬鹿にされているような気がしてしまってたら・・。

自分はいつの間にか気を使って、お母さんの前では右手をあまり使わないようになっていました。フランス料理を食べに行ってもフォークを使わず、パンはかぶりつくってようなことを気づけばしていましたた。右手がなくたって大丈夫ってのを見せたかったんだと思う。本当は大丈夫なわけないんだけどね。

カバンや服など身につけるものを選ぶのも大変でした。先週お母さんの服を整理してたら、ありとあらゆる上着の左のポケットから小さなビニール袋が出てきましたんだけど、これ何か知ってる?ビニール袋を使わなかったら服に義手を通すことができなかったんだよ。義手が太いから切れない服もいっぱいあったし、片手でもできるファスナーがついたジャケットを見つけるのは大変だった。1人で出かける時に片手でもうまく開ける財布やカバンは、最後まで探し続けていたと思う。でもそんな物なんてないんだよね、本当は・・。だからほぼ新品同様のカバンがクローゼットからいっぱい出てきた。義手を隠すために使っていた、ふわっと上からかけられる上着と共に。

今書いてきた私が目撃した右手に関する苦労は、ほんの一部だと思うけど、これだけでも一緒にいて耐え難かった・・。

だから何度もその手が無くなったことを恨んだと思うし、そうなれば絶対そうなった工場での瞬間を思い出すよね。私だってそうだから。そしてその原因が、馬鹿で意地汚い親戚のせいだったと言うとこに辿り着き、怒りがこみ上げ、その怒りのやり場がなく、どうにかそこで思いを断ち切ろうとする、と言うこのエンドレスなストーリーをそれはそれは何度も頭の中で再生してきたと思う。私だってこの事実にこんなに苦しめられて来たんだから、お母さんの苦しみはもう想像を絶する。そしてその親戚には最後の最後まで苦しめられたんだから忘れられるわけがない。奴らへの憎しみはお母さんはもちろん、私の中からも一生消えることないし・・。

だから手が無くなったことは想像以上に根が深く複雑で、本人が表に出さないから忘れてしまいがちだけど、ああやっているためには、休む間も無く自分を励まして本当に一生懸命生きてきたんだと思う。

だからそのために何かに打ち込む必要があったんだよね。それが山だった。ムキになって山に登ってたのも、そのせいだったと思う。「また山?本当に好きだね・・」じゃなかったんだよね。あれくらいハードで危険なことでもしなくちゃ、いろんな悲しみや怒りをポジティブなエネルギーに変えられなかったんだと思う。

お母さんがお笑い番組を嫌ったり、あるタイプの人を見下したりするのも、ここであえて説明しないけど、そんな人生と複雑に絡んでいるの、なんとなくわかるよね。その考え方が正しかったとは言わないけど、そうなってしまったのは仕方がないことだと思うし、非難してはいけないんだろうなって思う。

人の悪口をよく言ってたよね。聞く方も辛かったよね。だから2月に会ったときに、「もっとみんなを認めて人の良いところを見ていったら、良いんじゃないって?」ようなこと言ったのね。そうしたら「努力しないで生きてる人は好きじゃない。自分は人の何倍も努力して頑張ってきたから今があるんだ」ってような返事が返ってきて、その後は何も言えなかった。人の何倍も努力して築き上げてきた人生だったんだね。

だからこの後から、お母さんに対して「人より何倍も幸せな人生だったよね・・」と言うようなことを、たやすく言ってはいけないと思えてきた。あの人生は、私たちの想像を絶する努力を重ねて築き上げてきたもので、外から思うほど、本人は単純に幸せだったって思えてなかったのかもしれないから。癌になってから一度慰めようと、人はまた生まれ変わるかもしれない・・ようなことを言ったら、もう十分やって疲れたから生まれ変わるなんてことはしたく無いって言われて、びっくりしたことがある。すべて本音であったとは思わないけど、そんなに頑張ってきたんだって驚いたことを覚えてる。

だからお母さん、否定したいこといっぱいあったけど、様々な困難を乗り越えてきたら、ああなっちゃったんだろうなって思うと、仕方がなかったと思えてくるよね。そして苦労は、ここでも終わらなかった。

こんな苦労してきたお母さんが、これからって言う時に癌になってしまった。しかも少しずつ弱っていく癌と違った特殊な癌で、最後まで頭も身体も健康だったから、精神的な戦いが最後まで続いた。ずっと前向きに頑張ってきたけど、さすがに12月の終わりに内臓に転移してからは本当に不安だったと思う。途中から癌が体内で広がっていくのを体が感じ始めて、どう受け止めてたのだろうか?2月の終わり頃から、お腹が日々大きくなるのが私の目にもわかった(それくらい急な勢いで癌が転移していった)。痛かったと思うのに、痛め止めを飲まずに我慢して、毎晩背中に湿布を塗ってと言われ泣けてきた。湿布なんて聞くわけないのに・・。緩和ケアの先生に、よっぽど最後まで我慢して頑張ったんですねと言われたけど、本当にそうだったと思う。緩和ケアであまりにもあっけなかったのは、普通の人ならとっくに緩和に入っている状態の時に、まだ家で頑張ってたからと言うのもあると思う。そしてこうなっても、お母さんは最後まで良いと言われるあらゆる治療を続けて行った。最後には、運を呼ぶガーネットと言う石まで取り寄せて生きることを諦めなかった。緩和ケアに入ってからも始めは元気だったけど、少しずつ電話の最後に「まー、こんなもんだね」と言うようになって、それが辛かったな。まるで、あんなに頑張ったけど結局ここまでしかできなかったって言う風に聞こえてきて、虚しくなった。

そんな癌と関連して、もう1つ考えると苦しいのが、残していったたくさんのお金のこと。もちろん子供達に残す分もあったと思うけど、多くは自分で使うつもりだったと思う。また運悪くコロナと重なって(もちろんこれは世界中の人々に言えることだけど)、10年前から2人で計画していた私の50歳の誕生日のジョージア(グルジア)旅行や、ナッシュとの卒業旅行に行けず、そうこうしているうちに癌がひどくなってしまった。竜次のお金が降りたら、2人で地中海をのんびり旅する予定だったし、友達とスイスの山にはいつか必ず行くと決めていた。そのために一生懸命貯めていったお金に、ほとんど手をつけずに去って行った。一生懸命貯めて貯めて・・・。あんなに貯めるってどれくらいの努力だったんだろうか?

もう死が近くなってるって感じてからは、最後の夢がもう一回ボストンに来ることに変わっていった。今リフォーム中の家をすごく見たがってた。ボストンが好きだった大きな理由の1つは、多分ここにいる時が唯一頑張らなくて良かったからだと思う。いつの日から親と子の立場が逆転し、お母さん、ここに来ると全く何もしなくなったの。ご飯の手伝いはもちろん後片付けさえ。でも孫に囲まれてそんな素直でいられるお母さんは、本当に幸せそうだった。ここにいると時間がのんびり過ぎていく・・って言いながら楽しんでた。

・・と長くなってしまったけど、以上のような理由から、私的にはお母さんに対して、十分楽しんできた、良い人生だったって言う言葉を出し辛く、悲しい以上に悔しい虚しいみたいな気持ちが強く残ってしまいました。でももし今、そんな気持ちから救われるとしたら、お母さんが良かったと思ってることが1つある気がするから。それは、そんなお母さん自身の人生でなく、3人の子供達を立派に育て上げたと言う誇りや安心感みたいなもの。私たちそれぞれがこうして立派に育ったのは、お母さんの自慢だったと思うし、それを見届けられたのは、何にも変え難い幸せだったんじゃないかなって気がする。お母さんの口からも同じようなことを聞いたことあるしね。それに自分が親になってみて、ちょっと実感できる部分もあるし。だからそう信じたいし、私もそう考えることで、救われる気がする。

最後に、残して行ってくれたお金で、家のリフォームでも旅でも、それぞれのステップアップや幸せにつながる何かに使ってあげたら、喜んでくれると思う。もし何か有意義に使えたら、報告してあげると喜ぶと思う。だから残してくれたお金は、きちんと全て探しあてようね。無駄にできない・・。

手が無くなって間もない頃、お母さんは手が無くても頑張るから、私たちも困難に立ち向かった時に、お母さんのこの努力を思い出して頑張ってほしいって言ってたのを覚えてる。お母さんは、十分以上にいろんなものを私たちに残してくれて、私たちがそれを受け継いで行くことで、お母さんの努力が報われる気がする。

と言うわけで、最後まで読んでくれてありがとう。そんなわけで、各自いつまでも自分なりに輝いていられたら良いね。そしてこれからも兄弟仲良くして行こうね。よろしく。

P.S. これはブログページを使っているけど、ブログには乗ってません。

お母さんとの最後の写真

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1991年に渡米し、ニューヨーク市立大学をスタジオアート専攻で卒業後、シカゴの大学でインテリアデザインを学ぶ。
インテリアデザイナーとしてオフィスや企業スペースを手がけた後、フリーランスでキッチンやバスを中心にしたレジデンスのデザインを始める。 Read More…

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